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一から始める知財戦略

知的財産全般について言及します。

博士問題の昔と今

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1.はじめに

 先日ツイッターを眺めていると、気になる記事が目に飛び込んできました。

business.nikkei.com

 

 という訳で、相変わらずの博士問題ですね。私自身もアカデミアを離れた7年ほど経ちましたし、職場において博士相当の人材を指導するような機会もありましたので、少しこの点について考えを整理してみたいと思います。

 

2.自身の経歴について

 プロフィール等にも記載の通り私自身は自然科学系の博士後期課程(以下、「博士課程」と呼ぶ)を中途退学しており、博士号を所持してはいません

 そういう意味では、博士前期課程(以下、「修士課程」と呼ぶ)を卒業して一般企業に就職するという既定路線に乗ったわけでも、一流のペーパーに論文を投稿し華々しく博士号を取得した訳でもありませんし、どういう立場で語るべきなのかは非常に悩ましい限りだったりします。

 ちなみに、当時私の在籍していた東京医科歯科大学の博士後期課程でも博士号の取得率は50%程度と聞いていますし、世の中に中退者はかなり多いはずなのですが、中々話題に上がりませんね。「そういうとこやぞ!」という気がします(イレギュラーに対する耐性がないというかね)。

 

3.博士の能力について

 先ほどの記事に寄れば、「『勉強する→考える→問題提起する→実証する→解決する』というループを回す『知の体力』こそが博士号の力だ」とのことです。どうもこの方の中では、苦労しながら論文を通すプロセスとか、そこで試行錯誤する体力を博士独特の能力として評価しているようですね。よく言われる論理的思考力とどこら辺が違うのか、難しいところですね。

 また先ほどの記事の後半では、「極論すれば、『知の体力』の準備体操レベルには到達できている修士課程を修了した人を採用し、『論文博士』になる道を企業が整えるやり方の方がいいかもしれない」と論じています。要は、知的体力をつける(具体的には論文を作っていくプロセス)を推奨したいというのが筆者の最も強い主張なのかもしれません。そう読んでくれる人が多いかは分かりませんが。

 

4.知財業界における博士

 さて少し話題を変えます。実は、知財業界は、かなり博士号持ちの人間が存在します。私のような博士崩れを含めるのであれば、一緒に仕事をするチーム全員博士課程の関係者ということも珍しくありません。となると思うところは、博士は本当に必要とされていないのか、ということです。どうも巷で言う博士を必要としていない日本企業とは、いわゆる大手の有名企業であり、知財業界やスタートアップは含まれないらしいですね。

 

*まぁ正直なところ研究・開発に力を入れてる大手であれば博士持ちがスタンダートな気はするのですが、一応、少ないという前提に立ちます。

 

 この点について、先日、某大学の学長が博士問題について気になることを言っていました。録音をしていたわけではないため文言等は不正確で申し訳ないのですが、博士が企業で活躍できないのかというような趣旨の問いに対して、「そもそも(本学の博士課程は)既存の社会システムの中で活躍できる人材を育てることを目的としているのではなく、新たな社会システムを構築できるような人材を育てることを目的としているため、例えば、起業をしたり、スタートアップで活躍する人材はむしろ大学の教育理念にフィットする(私の理解)」というような趣旨の回答をしていました。やはりアカデミアはこうじゃなきゃいけないという感じですね。まぁ正直私がアカデミアから出た10年前と比較すれば、今は本当に博士の活躍できるフィールドが広がったと思うわけで、それは必ずしも日本社会の王道ではないかも知れませんが、本人たちが不幸というとまた別の問題なんですよね。

 

5.まとめ

 色々と書きましたが、結局言いたいことは一つ、「なんだかんだ皆頭が固いんじゃないかなぁ」ということです。私自身のもそうであったことは否定しませんが、時間をかけて成し遂げた事柄(博士号や修士号しかり、弁理士の資格なんかもそうかもしれません)を、できる限り「活かしたい」と思うのは当然です。

 しかし、逆に考えてみれば、長い時間をかけて体得した知識や経験が離散することなどそうそうないですし、そんなものはいつ役に立つのか、どう役立つのか分からないから面白いと考えることもできるはずです。

 まぁ私が博士課程としての正規の教育の質を担保できているかはともかく、先程の記事でもあった「知的体力」は、専門分野の知識を競ったり、収入や社会的な評価のために用いるべきではない気がします。むしろ、博士が行うべきは、様々な国や業界を超えて活躍し、その「知的体力の必要性を社会に対して広め、社会に還元すること」です。

 勿論、社会政策的に博士を増やす方向性自体は、重要なことです。ただ、本質的な博士の価値や存在意義を失っては、偏差値による派閥社会が、アカデミア教育歴による派閥社会に転換してしまうというだけに終わることになる気がします。それにしても、何年経っても博士論争は変わらないなぁ。